礼拝メッセージ
2025年7月
2025年7月6日

「ペテロのペンテコステ説教」
聖書箇所:使徒2章14-36節
1.この説教の舞台設定(14,15節)
①備えられた聴衆
大きな物音で集まり、自分たちの国ことばで神を賛美するキリスト者を目撃し、なぜだろうという疑問を持つ大群衆(ユダヤ教の巡礼者たち)がいました。
②タイミングよく対応したペテロと十一使徒たち
2、この説教で示されたもの(16~35節)
①聖書の予言のみ言葉(ヨエル書2章、詩篇16篇・110篇)
このことは、預言の成就であることが指摘されました。
②ナザレのイエスこそ、約束のメシヤ(キリスト)である。
しるしと不思議、十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨の事実によって明らかにされました。(33節)
3、この説教の明確な適用(36節)
「あなたがたはこのイエスを十字架につけたのです」(36節)聖霊の働きで、メシヤの事実がわかり、そのメシヤを十字架につけた責任は、聴衆である一人ひとりにあるという自覚が促されました。今日も変わらず、聖霊は、聖書のみことばを示し、キリストを示し、罪を示され、私たちをキリストの救いに導かれるのです。
2025年6月
2025年6月29日
「主は私の羊飼い」
聖書箇所:詩篇23篇
日本宣教会監督小坂嘉嗣先生をお迎えした、特別礼拝メッセージです。
2025年6月22日
「ペンテコステの出来事」
聖書箇所:使徒2章1-14節
1、意味
ペンテコステに起きた事象は、聖霊時代の到来を意味し、旧約の時代では限定的な働きしか示さなかった神の霊が、この時からすべての人に注がれる可能性が明らかにされたのです(17節)。主イエスの御名によって求めるならば与えられる時代となったのです。(ヨハネ7:37~39,16:25)この事象は聖霊の力を象徴しています。
2、強調点と否定点弟子たち
一同が聖霊に満たされたことが大切な強調点であり、様々な事象は、聖霊の注がれた時に必ず起こることではありません。この出来事は歴史的事実として記されたものです。同じ事象がおこることが、聖霊の満たしの証拠ではありません。
3, この出来事の私たちへのメッセージ
・弟子たちは信仰によって心がきよめられた(使徒15:9)
・よみがえりのキリストが弟子たちの心に、聖霊によって内住された(ガラテヤ2:20)
・キリスト者(弟子)は、聖霊に満たされることが特権であり、父なる神の約束であり、キリストの命令です。大切なのは、今、聖霊に満たされて生きることです。(エペソ5:18)
2025年6月15日
「新しい時代への備え」
聖書箇所:使徒1章12-26節
ペンテコステ(聖霊降臨)は、聖霊時代の始まりであり、主の再臨まで続く教会時代のスタートです。この新しい時代は、主イエスの昇天10日後に到来しましたが、この間が「父の約束」を待った弟子たちの準備期間でありました。
1、心の準備期間
「待て」と主に命じられた弟子たちは、ひとつところに集まり、心を一つにして祈りました。悔い改めと全き献身をもって聖霊を祈り求めました。心を空しくし、求める者に聖霊を与えてくださるという主のことば(ルカ11:13)を信じて待ち望みました。キリストの証人となる力を求めたのです。
2、体制の準備期間
新しい時代は、ユダヤ教を母体として、キリスト教会が誕生するのです。主の直弟子である12使徒は、イスカリオテ・ユダの脱落のため11使徒となり、一人欠員していました。弟子たちは祈りのうちに神に示され使徒の補充を決意します。(マタイ19:28、黙示録21:14)その結果、マッテヤが選出され、使徒に加えられ新しい時代の霊的リーダーたちである12使徒が備えられたのです。
霊的面と、実際面の両面で、最善の備えをして、信仰と献身をもって「その時」を待ち望んだのでした。
2025年6月8日
「父の約束を待て」
聖書箇所:使徒1章3-14節
「父の約束を待て」使徒1章3~14節
昇天される直前に主イエスが語られた弟子たちへの命令(1:4∼5)から「使徒の働き」は始まります。
1、エルサレムを離れないで
エルサレムは、主が十字架にかけられ殺害された場所です。弟子たちに危害が及ぶかもしれません。主に従うことに失敗した場所です。出身地ガリラヤに帰りたいと願っていたでしょう。しかし主は弟子たちに都エルサレムにとどまるよう命じました。(ルカ24:49、イザヤ30:15)
2、わたしから聞いた父の約束
「助け主」「聖霊」「真理の御霊」(ヨハネ16:7)が与えられることは、父なる神の約束です。(ルカ24:49)主の十字架と復活と昇天の結果、必ず与えられる父の約束です。
3,待ちなさい
「待つ」とは、自分勝手な行動を慎むことです。約束された父を信頼することです。語られた主の命令に従うことです。(使徒5:32)
4、聖霊によるバプテスマと聖霊の満たし
主の昇天の10日後、五旬節(ペンテコステ)の日に聖霊は、弟子たち120人の上に臨みました。栄光をお受けになった主が(ヨハネ7:39)約束の聖霊を弟子たちに満たし、キリストの証人として、弟子を遣わされたのです。
2025年6月1日
「主イエス・キリストの昇天」
聖書箇所:使徒1章1-11節
主イエスの昇天の意義は何でしょうか。
①主イエスが地上の使命をすべて終えたことを意味する(9節)
②真の義を世に明確に認めさせるため(ヨハネ16:10)
③父なる神の右に着座され、私たちのためにとりなしてくださる(ローマ8:34)
④聖霊を天の父なる神より受けて、信じるキリスト者に注ぐため(使徒2:33)
⑤再臨される主に希望を持つため(ヨハネ14:3)
この昇天によって、主イエスは天におられ、絶対的な権威をもって、代行者である聖霊を通して、地上に働くことになります。地上におられた主は、地理的、肉体的、時間的制限を受けていましたが、昇天された主は、それらの制限を受けずに、力強く働くことができます。キリスト教会をご自分の体として、御心を行われるのです。「復活されたキリスト行伝」が昇天の後に始まります。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と力強く信仰を告白するお互いでありますように。
2025年5月
2025年5月25日

「主イエスの権威」
聖書箇所:マタイ7章28,29節
主イエスが「山上の説教」を語り終えられると、群衆は驚嘆の声をあげました。
1,なぜ驚いたのか
説教後に、聴衆の関心は説教者に向けられました。律法学者たちの表面的な言い伝えの解釈ではなく、聖書の真意を神の権威をもって教えられたこの方は何者なのか。無学なナザレの大工だった説教者とはとても思えない偉大な人格に触れた驚きでありました。
2,驚き後の反応
主イエスをどのようなお方としてみるかによって「山上の説教」の受け止め方が変わってきます。心にわだかまりなく、主イエスとその説教に接しますなら、イエスは神の御子キリストであり、その説教は、神がご自分の民(クリスチャン)の生き方を教えるものであることに気づきます。
3,主イエスの権威を認める
この説教を聞いて禁を犯して近づいたツァラアト患者は、「主よ。御心ひとつで…」と、主イエスの神の権威を認め信仰告白しました。
そして、きよめの御業がなされたのです。(マタイ8:1∼3)「山上の説教」は主の権威が土台となり語られた説教であり、救いに与った主にある神の民の新しい生き方を示すものなのです。(Ⅱコリント5:17)
2025年5月18日
「岩の上に家を建てなさい」
聖書箇所:マタイ7章24-27節
主イエスは「山上の説教」の結びに、二種類の土台のたとえを語られました。
1,岩の上か砂の上か
家を建てる時、通常の感覚であれば、だれでも岩の上すなわち堅固な土台の上に基礎を備えたいと願うでしょう。しかし、家の建設を私たちの人生に例える時、確かな土台か否かを吟味することなく、深く掘り下げて人生を考えることがなかなか出来ません。
2,必ず来るテスト
大きな自然災害は必ず来るとは限りませんが、人生には、様々な災い、困難、病があります。そして最終的には、すべての人に臨む終わりの時があります。(へブル9:27)その時、自らの人生の基盤がいかにもろい砂地であるかに気付くのです。
3,岩の上に建てなさい
主イエスは、「山上の説教」を聞いて実践する人が、確かな土台をもって、人生を送り、永遠の希望を持つ人であることを教えられました。実践するためには、神の備えられたイエス・キリストの十字架による救いが必要であり、神のいのちである聖霊の力によって可能となります。(マタイ19:26)イエス・キリストこそ私たちの永遠の確かな土台なのです。(Ⅰコリント3:11)
2025年5月11日
「真のキリスト者」
聖書箇所:マタイ7章21-23節
主イエスは、キリスト者の真偽の問題を語られました。
1,信仰告白の問題
「主よ」「わが主よ」と主イエスに告白することは、真のキリスト者の証しです。(ローマ10:9~10、Ⅰコリント12:3)しかし、本物の告白か口先だけの告白か否かは「父のみこころを行う」という実によって現わされます。主の十字架による救いの経験の確かさが求められています。
2、奇跡や大きな働きをおこなったとしても
主イエスの名によって預言、悪霊追い出し、多くの奇跡を行うことが、真のキリスト者の証しではありません。キリストとの関わりなしにできる業なのです。主イエスは「全く知らない」といわれる人々がいることを語られました。(マタイ24:24)
3,真のキリスト者とは
信仰のスタートにおいて、狭い門から入ることです。それは自分の罪を心から認め、神に対して悔い改め、イエス・キリストを信じることです。(使徒20:21、Ⅰコリント15:3~4)そして、自分を捨て、キリストに従い、父のみこころを行う信仰生活を継続することです。キリストとの確かないのちの関係を持ち、光に従うことです。(ローマ12:1~2、ヨハネ15:5、Ⅰヨハネ1:7)
2025年5月4日
「にせ預言者に用心せよ」
聖書箇所:マタイ7章15-20節
1,偽預言者とは
神からの語りかけを受けないのに、受けたかのように預言する者、神のみことばを曲げて正しく伝えない者が偽預言者です。彼らはいのちに至る狭い道ではなく、滅びに至る広い道に案内する人たちです。(エレミヤ6:14)
2、偽預言者の特徴
羊の衣を着て、羊の群れにやってくる人たちで、外面は羊のように見え、柔和で親切で丁寧で熱心です。しかし、内面は貪欲な狼なのです(使徒20:29)。偽預言者はいつの時代にも存在しますが、主イエスは、終末に偽預言者が多く起こって人々を惑わすと、繰り返し警告しておられます。(マタイ24:11,24)
3,偽預言者を見分けるには
木はその実によって知られるように、偽預言者も表に現れた結果で判断されます。第一に、その教えが本当に聖書の真理に基づいているか否かです。第二に、悔い改めにふさわしい実を結んでいるか、第三に御霊の実(ガラテヤ5:22,23)を結び、その品性にキリストの香りが(Ⅱコリント2:14)が放たれ、謙遜、柔和、寛容が示されているかが問われます(コロサイ3:12)
私たちは偽りの案内人(偽預言者)に用心するとともに、自分自身も吟味し、いのちに至る道を歩むことが大切です。
2025年4月
2025年4月27日
「狭い門から入りなさい」
聖書箇所:マタイ7章13,14節
1,滅びに至る広い門
「広い門」とはそこから入ることに安易な門です。道も広々として歩くのに少しの苦痛も感じません。多くの人が吸い込まれるように流されていきます。肉の心を喜ばせ、この世を愛する門なのです。しかし、ついには滅びが待っている地獄に通じる門となります。
2、いのちに至る狭い門
「狭い門」とは、身をかがめてへりくだらなければ入れない小さく狭い門です。この門に入る者は、多数の人達と違うことをするため、からかわれたり、馬鹿にされたりするかもしれません。迫害に会うことさえあります。主イエスの救いの門は実に狭い門です。しかし、この道を進めば進むほどに、喜び、平安、自由、確信、満足が内にみなぎり、希望が輝き渡るのです。そして、結末は栄光のゴールです。(ヨハネ10:9)(ヨハネ14:6)
3,狭い門への招き
人生には、この二つの門があり、二つの道があります。二者択一の選択であり、中間はありません。滅びかいのちか、裁きか救いか二つに一つの決断が求められています。主は「入りなさい」と狭い門に招き、決断を迫っておられるのです。(申命記30:19))
2025年4月20日
「キリストの復活の意義」
聖書箇所:ヨハネ20章19-29節
キリストの復活にどのような意義があるのでしょうか。
1,信仰の確証
キリストの復活は、私たちが、キリストの贖罪の御業を信じるための唯一のしるしです。(マタイ12:39,40、ヨハネ2:19)よみがえられたキリストは、ご自身を弟子たちに現し、「信じないものではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)といわれました。
2、共におられる神
よみがえられたキリストは弟子たちに「聖霊を受けなさい」といわれました。(ヨハネ20:22)聖霊は「キリストの霊」です。復活の主は世の終わりまで、いつも、ともにいてくださるお方となってくださいます。(マタイ28:20)私たちの人生のすべての局面において共におられ、助け、導き、顧み、教えて下さるお方なのです。
3,死への勝利
キリストの復活は、ただ魂の救いのみではなく、私たちの全存在の救いであることを示しています。(Ⅰコリント15:20)信じる者は、キリストと共に栄光に輝く体によみがえるのです。(ピリピ3:21)キリストの空中再臨(携挙)の時、そのことが起こります。私たちに、本当の死への勝利と希望が与えられています。(Ⅰコリント15:50~58))
2025年4月13日
「十字架に示された神の義と愛」
聖書箇所:ローマ3章25,26節,5章8節
イエスの十字架に私たちは何を見るのでしょうか。
1,人の罪
主の捕縛、裁判、十字架刑に至る一連の流れの中で、人間の罪の醜さが示されています。弟子の裏切り、祭司長、律法学者たちのねたみ、偽証、リンチ、ピラトの不正な判決、十字架を囲む民衆の嘲りが神の御子に向けられたのです。
2、神の正義(ローマ3:25,26)
人類の罪への神の怒りは、ことごとく主の十字架に注がれました。(イザヤ53:6)アダムから主の再臨に至るまでの人類のすべての罪の代償として、主は血を流され死なれました。ここに神の正義が明らかにされたのです。
3,神の愛(ローマ5:8)
最愛の御子のいのちを犠牲にして、神は人類に罪からの救いの道を開かれました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ3:16)主イエスによる罪の贖いを信じるすべての人は、神との平和を持ち(ローマ5:1)永遠のいのちが与えられます。(ヨハネ3:16)
2025年4月6日
「ゲッセマネのキリスト」
聖書箇所:マルコ14章32-42節
1、なぜ祈られたか
主イエスは、十字架の苦しみと死を前にして、これを避けたいという強烈な思いに襲われました。それは主イエスの人間性の弱さにつけ込むサタンの誘惑でした。サタンは全力で主イエスによる全人類の罪の贖いの業を阻止しようと働いたのです。主はこの強烈な誘惑に対抗し、勝利するためにゲッセマネの園で祈られたのです。
2、どのように祈られたのか
血の汗を流し(ルカ22:44)大きな声と涙をもって(へブル5:7)、そして、確信が持てるまで繰り返し、心を注ぎだして(詩篇62:8)祈られました。3,何を祈られたのか
主は父なる神に対して、十字架回避をあるがままストレートに述べました。しかし、父のみこころを最優先し、一致し、すべてとすることを祈り求めたのです。その祈りの結果として主イエスの心に深い納得と確信と満足が与えられました。(イザヤ53:11)ゲッセマネの祈りにより、主イエスはサタンの誘惑に勝利し、十字架と復活の勝利へ進まれたのです。