礼拝メッセージ

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2025年4月

2025年4月20日

 

「キリストの復活の意義」

聖書箇所:ヨハネ20章19-29節

キリストの復活にどのような意義があるのでしょうか。
1,信仰の確証
キリストの復活は、私たちが、キリストの贖罪の御業を信じるための唯一のしるしです。(マタイ12:39,40、ヨハネ2:19)よみがえられたキリストは、ご自身を弟子たちに現し、「信じないものではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20:27)といわれました。
2、共におられる神
よみがえられたキリストは弟子たちに「聖霊を受けなさい」といわれました。(ヨハネ20:22)聖霊は「キリストの霊」です。復活の主は世の終わりまで、いつも、ともにいてくださるお方となってくださいます。(マタイ28:20)私たちの人生のすべての局面において共におられ、助け、導き、顧み、教えて下さるお方なのです。
3,死への勝利
キリストの復活は、ただ魂の救いのみではなく、私たちの全存在の救いであることを示しています。(Ⅰコリント15:20)信じる者は、キリストと共に栄光に輝く体によみがえるのです。(ピリピ3:21)キリストの空中再臨(携挙)の時、そのことが起こります。私たちに、本当の死への勝利と希望が与えられています。(Ⅰコリント15:50~58))

2025年4月13日

 

「十字架に示された神の義と愛」

聖書箇所:ローマ3章25,26節,5章8節

イエスの十字架に私たちは何を見るのでしょうか。
1,人の罪
主の捕縛、裁判、十字架刑に至る一連の流れの中で、人間の罪の醜さが示されています。弟子の裏切り、祭司長、律法学者たちのねたみ、偽証、リンチ、ピラトの不正な判決、十字架を囲む民衆の嘲りが神の御子に向けられたのです。
2、神の正義(ローマ3:25,26)
人類の罪への神の怒りは、ことごとく主の十字架に注がれました。(イザヤ53:6)アダムから主の再臨に至るまでの人類のすべての罪の代償として、主は血を流され死なれました。ここに神の正義が明らかにされたのです。
3,神の愛(ローマ5:8)
最愛の御子のいのちを犠牲にして、神は人類に罪からの救いの道を開かれました。ここに愛があるのです。(Ⅰヨハネ3:16)主イエスによる罪の贖いを信じるすべての人は、神との平和を持ち(ローマ5:1)永遠のいのちが与えられます。(ヨハネ3:16)

2025年4月6日

 

「ゲッセマネのキリスト」

聖書箇所:マルコ14章32-42節

1、なぜ祈られたか
主イエスは、十字架の苦しみと死を前にして、これを避けたいという強烈な思いに襲われました。それは主イエスの人間性の弱さにつけ込むサタンの誘惑でした。サタンは全力で主イエスによる全人類の罪の贖いの業を阻止しようと働いたのです。主はこの強烈な誘惑に対抗し、勝利するためにゲッセマネの園で祈られたのです。
2、どのように祈られたのか
血の汗を流し(ルカ22:44)大きな声と涙をもって(へブル5:7)、そして、確信が持てるまで繰り返し、心を注ぎだして(詩篇62:8)祈られました。3,何を祈られたのか
主は父なる神に対して、十字架回避をあるがままストレートに述べました。しかし、父のみこころを最優先し、一致し、すべてとすることを祈り求めたのです。その祈りの結果として主イエスの心に深い納得と確信と満足が与えられました。(イザヤ53:11)ゲッセマネの祈りにより、主イエスはサタンの誘惑に勝利し、十字架と復活の勝利へ進まれたのです。


2025年3月

2025年3月30日

 

「人間関係の大切なルール」

聖書箇所:マタイ7章7-12節

「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法であり預言者です。」主イエスのこの言葉は「黄金律」ゴールデンルールと呼ばれています。
1、黄金律と言われる理由
①積極的な愛の行動を勧めているから
②道理にかなったわかりやすさ
③聖書全巻の要約・エッセンスだから(マタイ22:36~40、ローマ13:8~10 ガラテヤ5:13~14)
2、実行が難しいルール
誰でも、この黄金律を良いものと認めるのですが、本気で実行しようとすると、全くできない現実にぶつかります。他人の立場に自分を置けない「自分」を知るのです。
3,実行可能とする道
この戒めの導入に「ですから」とあります。この命令は、7~11節に述べてきたことを前提としています。天の父がその求めを聞いて下さり、聖霊を与えて下さり(ルカ11:13)黄金律を行う力を私たちに与えてくださるのです。

2025年3月23日

 

「求めなさい」

聖書箇所:マタイ7章7-11節

1、深い必要の自覚
主イエスの説教を聞く者は、自らの心の現状を知らされます。神の御民にふさわしくない罪とけがれに満ちている絶望的な状態を自覚するのです。無能、無力な自分が救われるためには、全能の神に求める以外にはないことを知るのです。
2、切なる求め
求め、捜し、門をたたく動作は、心、足、手を使い全身全霊をもって熱心に執拗に神に求め続けることを意味します。犬や豚のように、無関心な者ではなく、真剣に求め続ける者に与えると神は約束しておられます。(ルカ11:5~8)
3,天の父が与えてくださる
罪びとである私たちでさえ、自分の子どもには最善な良きものを与えます。キリスト者はイエス・キリストに在って天の父のこどもなのです。(ヨハネ1:12)信頼と愛をもって神なる父に聖霊を祈り求めましょう。(ルカ11:13)

2025年3月16日

 

「全能者の陰に」

聖書箇所:詩篇91篇

先週の90篇に続く、91篇を開きましょう。作者は90篇と同じくモーセです。
1,神に信頼する幸い・・・全能者の陰に宿る
毎週私たちは、使徒信条を唱え、「我は全能の神を信ず」と、告白しています。その全能者の陰に宿るとはどういうことでしょうか。影では無く、「陰」です。神様の御許、隠れたところ、そこに住むのです。十字架の陰に宿ると同じ意味で、イエス・キリストの十字架を通して父なる神のもとに近づく者となりました。そこに私たちの思いを向けて、そこの住民となるのです。
2、神の守りの約束
そのような人に対する約束が、後半に記されています。
・試練の時助けが与えられる
・祈りに答えてくださる
・栄誉・誉れが与えられる
・どんな時にも共にいてくださる
・神がその人のために計画されていたことがすべて成就する

2025年3月2日

 

「大切なことを見分ける」

聖書箇所:マタイ7章1-6節

1、盲目的な愛の警戒
人をさばくことが戒められた反動で、無批判な行き過ぎた態度が別の問題を惹き起こします。悪意とフェイクに満ちた世に在って、人を愛し、神を畏れて生きることを学ぶことが大切です。(ピリピ1:9,10)
2、犬や豚に相当する人とは
単に教会外の人を指しているのではありません。いったんキリストを受け入れた後、再び世の汚れに巻き込まれ征服された人々です。(Ⅱペテロ2:21,22)神の福音を軽蔑し、嘲り、教会を傷つける人達です。このような人達を警戒しなければなりません。神のことば(福音)をすべての人に宣べ伝えることは、神の命令ですが、考えなしに提供してはならない人たちがいるのです。
3,福音伝達における見極め
無差別に福音の種を蒔きさえすればよいのではありません。相手の魂の状態を良く見極めて行うべきです。祈って時を待ち、聖霊の導きを求めましょう。素直さと共に賢さをもって、神のことば(福音)を伝えるものとなりましょう。(マタイ10:16)


2025年2月

2025年2月23日

 

「人をさばくな」

聖書箇所:マタイ7章1-5節

1、「人をさばくな」とは
人を批判し、中傷する裁きの心は、私たちの心の奥底に潜む傲慢の罪です。さばく人は常に自分を義とし、さばかれる者よりも高いところに自分を置きます。人を赦し、さばく権威は、神の子イエス様だけに属します。(ヨハネ5:22)ですから、人をさばく者は、無意識のうちに自分自身を神の座にまで引き上げてしまっているのです。
2、「人をさばくな」―その理由
①自分が裁かれないため(1、2節)。
裁きは神にあります。他人をさばく同じ鋭さ、同じ基準で神はさばく者を裁かれます。(Ⅱコリント5:10)
②裁く能力も資格もないから(3,4節)
「ちり」は微小なおがくずで、「梁」は建築用の丸太あるいは横木、角材です。盲目の眼科医が最も敏感に感じやすい目を治療する行為があってはならいのです。
3,「人をさばくな」-まず自らを点検せよ
「まず自らの丸太を取り除けよ」という主イエスの悔い改めへの迫りに心を留めましょう。他人を裁く前に、自分のうちにある「丸太」-傲慢の罪を十字架につけ、聖霊による愛の心を持つ者となりましょう。(エペソ4:15、29)

2025年2月16日

 

「一日の苦労に集中せよ」

聖書箇所:マタイ6章25-34節

1、明日(将来)の心配はやめよ(34節)
主イエスは、明日への計画の備えを否定しているのではありません。取り越し苦労を否定しているのです。思い煩う心は、あらゆる種類、あらゆる方向の可能性を描き、想像で事実をでっちあげます。明日は、私たちにとって未知であり、神の属する領域なのです。その日その日なすべき義務、職務、使命に集中し、精一杯果たすなら、明日(将来)のことは、全面的に神に委ねて生きることが大切なのです。
2、注意すべきこと
①主イエスが「心配するな」と語りかけておられるのは、八福の恵みに生きるキリスト者に対してであり、主の救いに与り、その恵みに生きる者へのメッセージなのです。
②無計画、無配慮、無為、怠慢はむしろ罪です。「心配するな」とは、神に信頼しない取り越し苦労を言っています。
③正しく合理的で正統な考慮は当然払うべきです。貯金や保険が否定されているのではありません。
3,結び
先走りして、今日の分に明日の分を背負い込んではならないと、主イエスは命じておられます。今日、私たちを助けてくださる神は、明日も同じ神であり、私たちを助けてくださるのです。(へブル13:8)

2025年2月9日

 

「何よりもまず神を求めよ」

聖書箇所:マタイ6章25-34節

1、心配無用―天の父は知っておられる
キリストにおいて神に罪を赦され(エペソ4:32)キリストを受け入れ神の子どもとされる特権が与えられたキリスト者(ヨハネ1:12)は、天の父なる神との信頼と愛の関係にあります。神は私たちの必要や心配事をすべて知っておられます。(Ⅰペテロ5:7)
2、まず、神を求めよ
信仰生活には優先順位があります。神が第一なのです。神を求めるとは「神の国と神の義」を求めることです。すなわち神の支配に生涯を委ね、神との正しい関係―愛ときよきと信頼の関係―を何よりも大切にすることなのです。何よりもまず神を求める時、すべての必要はそれに加えて与えられます。天の父なる神がキリストに在って顧みてくださるのです。(ピリピ4:6,7)。

2025年2月2日

 

「空の鳥、野の花」

聖書箇所:マタイ6章25-34節

1、心配するな
世にあるキリスト者にとって、世を愛し、神を無視してしまうのと同じように危険なのは、この世の心配(思い煩い)に捕らわれて神に信頼しなくなることです、この世に生存する限り、衣食をはじめ様々な必要がありますが、もし、なかったらと想像し、神を忘れて悩むことはやめるべきことなのです。
2、空の鳥、野の花を見よ
空の鳥は、エサがなかったと思い悩むことなく空を飛び、小さな野の花は、生命力を得て綺麗に咲いています。すべて神が心に留め、養い育てているからです。神の子どもとなったキリスト者の必要を、創造者、創始者、維持者である天の父が顧みて下さらないはずはないのです。
3,神に信頼せよ
心配するな(思い煩うな)とは、怠け者になれという命令ではありません。父なる神に信頼し、全力で前向きに生きることです。余計な心配で活力を失うことなく、神の恵みと助けと備えを信じ、御旨の道を歩むことです。神に信頼して生きる幸いを知るお互いとなりましょう。(ローマ8:32)。


2025年1月

2025年1月26日

 

「神か富か」

聖書箇所:マタイ6章19-24節

1.この世の富のすさまじい拘束力
富が人格を持つ支配者のように示され、私たちに絶対服従を要求してくるというのです。「貪欲は偶像礼拝です」(コロサイ3:5)とあるように、神に敵対し、私たちを強力に拘束し、隷属しようとするのです。
2.世の富(宝)への愛情が正しい知性を暗くする
「金銭を愛することがあらゆる悪の根」(Ⅰテモテ6:10)とあるように、この世の富に拘束される人生は、神の与えてくださった知性を正しく用いることができず、誤った判断を下すことになります。
3.十字架こそ勝利の道
ガラテヤ書の三本の十字架(ガラテヤ2:20、5:24,6:14)に示された信仰に立ちましょう。
神か富かの選択は、いのちか死、光か暗き、主か世かを選ぶことで妥協点も中間点もないのです。

2025年1月19日

 

「天に宝を蓄えなさい」

聖書箇所:マタイ6章19-21節

1、自分のために地に蓄えるな
人生には、時には高額な出費があり、蓄財を否定しているのはありません。必要な富を蓄えることは大切です。しかし、物欲に捕らわれ、すべての関心が富の増加だけに向けられ「金銭を愛する」生き方が禁じられているのです。(Ⅰテモテ6:10)
2,自分のために天に蓄えよ
私たちの宝は、本来神のものです。私たちには所有権はありません。私たちの体も、時間も、家族も,財も、才能も、何もかも神から預けられたものです。その宝を正しく使うことが命じられています。主に在って、生活の必要に備え、日常生活を大いに楽しむことは、天に宝を蓄えることです。(Ⅰテモテ6:17~19)そして、永遠の友を得る宣教の働のため(ルカ16:9)、更に多くの愛の業のために地の宝をささげる時、宝を天に蓄えることになります。(マタイ25:34~40)
3,宝のある所に心が
虫も、さびもつかず、盗人もいない、天に富を蓄積することこそ、安全、確実で自分のために報われる道です。天に望みを置き、主イエスを宝として歩むお互いとなりましょう。

2025年1月12日

 

「真の断食」

聖書箇所:マタイ6章16-18節

主は、弟子たちに断食をそれほど奨めてはおられませんが(マタイ9:14~15)、軽視したのではありません。軽視していれば、このように断食に伴う危険性を指摘することもなかったでしょう。施しや祈りの場合もそうでしたが、断食も人の前で行わないようにと戒めておられます。自分がいかに敬虔で信仰深い者であるかを示すために断食してはならないといわれるのです。人を意識するとき、「神のために」なされるどのような行為もその意味を失ってしまします。
真の断食は、ひたすら父なる神に集中するための、間接的な働きです。他者が自分をどう見るか、どう評価するかという意識が全く入り込む余地がないのです。神の前にひたすら祈るための手段なのです。
私たちの人生には、重大な決断が必要な時、深刻な悩み苦しみに遭遇する時があります。そのような時、祈りと断食により、神の御介入を願うことは幸いなことです。(マルコ9:29)

2025年1月5日

 

「この山を我に与えよ」

聖書箇所:ヨシュア記14章1-15節

老聖徒カレブのこの要求のことばについて学びましょう。1,この山
45年前、カデシュ・バルネアで、イスラエル民族は不信仰となり、約束の地には入れないと大多数の人々が嘆く原因となった強力な城塞都市(ヘブロン)があった山です。この時、カレブは信仰をもって進撃することを主張しましたが、民の不信仰のゆえに叶いませんでした。しかし、主はこの山を彼に与えると約束されました。
2,我に
カレブ自身は、「主に従い通した」ものであることが証されています。(8,9,14)それは、自らの証言だけでなく、指導者モーセと聖霊によるものでした。
3、与えよ
カレブの要求は①神の約束への信頼、②継続的な服従から生まれる信仰③主が共におられるという信仰に基ずくものでした。主は彼の信仰のゆえに「この山」を与えてくださいました。
この山と呼ぶような問題、課題をお持ちでしょうか。今年、カレブのように信仰によって挑戦し、主からの祝福を得るお互いとならせていただきましょう。


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