礼拝メッセージ

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2024年11月

2024年11月17日

 

「日ごとの糧を、今日も」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

 主の祈りの後半は、自分自身にかかわる祈りです。まず始めに求めるのは、「生きる」ための必要を求める祈りです。
1,日々の糧
父なる神は、一羽の雀に目を留め、私たちの髪の毛さえも数えられ(マタイ10:29,30)、私たちの生存のための必要すべてを顧みられるお方です。すべての良き物は、父なる神から来ていることを自覚し、祈り、感謝することは私たちの務めです。
2,日ごとに、今日も
父なる神は、一時的に一括して恵みを与えるのではなく、日ごとに、その日に与えなさるお方です。それは、私たちが父なる神を日々信頼し、愛の交わりを保ち続ける為に必要な方法なのです。「今日もあなたを信頼します」「今日もあなたを愛します」「今日もあなたにお仕えします」という祈りを期待しておられるのです。
3、私たちにお与えください
 父なる神は、キリストに在って、私たちの祈りをお聞きくださいます。キリストに在って、深い愛の交流ができるようにしておられます。一足一足キリストに頼り、歩む信仰生活を日々送るお互いとなりましょう。

2024年11月10日

 

「みこころが行われますように」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

1,みこころ天で行われるように
天とは神のおられるところであり、罪がありません。聖い神の御座なのです。天においては神のみこころが、天使によって心から進んで喜びにあふれて行われています。(詩103:20,21)荘厳、調和、美しさに満ち、神の主権が完全に行われる世界なのです。(黙示録4,5章)
2,地でも行われるように
この地は、憎しみがあり争いが絶えません。罪のゆえに混乱し、無秩序、争いは世界のあちこちで噴出しています。しかし、神は世を愛して、御子イエス様をお与えくださり、救いの道を開かれ、罪よりの救いの福音を与えてくださいました。神のみこころが地においてもなるようにという主イエスの重荷を共有するところに、私たちの救霊、宣教があり、祈りがあります。
3、私にも行われるように
 主イエス様の真実な願いは、私たち一人ひとりが真に神のみこころに生きることなのです。主イエスがゲッセマネの園で「わたしの願いではなくみこころがなりますように」(ルカ22:42)と祈られた模範にならい、私たちがみ旨に喜び従うこと(詩40:8)を、主は願っておられるのです。  ただ主のみこころが成るように祈りましょう。

2024年11月3日

 

「御国が来ますように」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

1,御国
 御国とは、神の王国です。神の王国とは、神が王として支配されることを意味します。神が現に支配されるところ、そこに御国があります。
2,来ますように
神の支配が及ぶように、拡大して届くように、という願いです。
①私自身に来ますように(聖潔)
私の心の中に、神が王として来て下さり、支配し治め
てくださるようにと祈り、神との主従関係を確認し、心の全き聖潔を求めることです。(Ⅰテサロニケ5:23)
②隣人に来ますように(宣教)
他者の心の中に神の支配が及ぶように願うことは、福
音宣教の進展と、救霊によるリバイバルを願うことにつながります。(詩篇67:7)
③この世界に来ますように(再臨)
この世はサタンが支配する国ですが、キリストの再臨によって、その支配は完全に神のものとなります。千年王国、新天新地の実現こそ、神のご計画であり、私たちの願いなのです。(Ⅱペテロ3:12,13)


2024年10月

2024年10月27日

 

「御名があがめられますように」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

1,御名とは ユダヤ人は、神の名をみだりに唱えることを恐れ、神の名(ヤーウェ)が聖書に出てくると、そのまま使うのを避けて、神を「御名」と呼びました。したがってここで「御名」とは、神ご自身を指すのです。その本質、性格、属性のすべてを表現する言葉です。
2,御名を崇めるとは「崇める」とは、直訳すれば「聖なるものとする」とか「尊敬する」というような意味になります。神ご自身を神でないもの、神にふさわしくないものから区別して、他のいかなるものとも違う方として認め、神を神としてほめたたえることです。この願いの意味は全世界が頭と垂れて、神をあがめ、敬い、賛美し、礼拝し、褒めたたえ、感謝するという求めを言い表しています。(詩篇57:11、ピリピ2:10~11)
3,適用心から神があがめられ、礼拝され、人々の間で尊ばれることが、あなたの何ものにも勝る最大の求めとなっているでしょうか。この求めが神へささげる祈りの筆頭のテーマになっているでしょうか。自己中心から神中心に変えられた祈りこそ、祝福を受ける秘訣なのです。(ピリピ1:20)

2024年10月20日

 

「天にいます私たちの父よ」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

主の祈りは、まず神への呼びかけから始まります
1,父よ
 創造主なる神を「父」と呼ぶように主は教えてくださいました。主イエスを信じ、罪の赦しを与り、新しく生まれ変わったものは神の子とされたのです。(ヨハネ1:12)私たちは「アバ、父」と叫ぶ御霊の証しが与えられます。(ローマ8:1516
2,天にいます父よ
私たちの地上における父親のイメージは、必ずしも良いものではないことがあります。自己中心な父親に育てられた人は父という表現自体を嫌うでしょう。この祈りの「天にいます」お方、それは「イエス・キリストの父なる神」なのです。イエス様のお父様が私の父親となってくださるのです。(Ⅱコリント1:3
3,私たちの父よ
「隠れたところで見ておられるあなたの父」(4節、6節)とあり、父なる神と私との関係が、祈りにおいて強調されていますが、主の祈りでは、「私たち」と「父なる神」は神の家族であることが強調されています。唯一の神をイエス・キリストにあって父とし、教会という共同体に在って祈るのです。(エペソ3:2021

2024年10月13日

 

「あなたがたはこう祈りなさい」

聖書箇所:マタイ6章9-13節

1,祈りの前の沈黙
 「ですから」と、主は語り、偽善者の祈りと異教徒の祈りを警戒することを前提として、「主の祈り」を教えてくださいました。神の前に一人出て、神に面会し、話そうとしているのです。愛と真実、義と聖きに満ちた全知全能のお方を静まって知るところから祈りは始まります。(詩46:10)
2,祈りの典型
「主の祈り」は、私たちが祈るための「型」「典型」が教えられています。祈りはまず「呼びかけ」から始まり、「神にかかわる祈り」「わたしたちにかかわる祈り」そして頌栄のことばで終わります。この順序は主が教えられたものです。
(ルカ11:1~2)
3,祈りの内容
「主の祈り」の中に、私たちが神に祈るべきすべての本質が含まれています。その意味で、その内容を理解することは非常に大切です(ローマ8:26)。理解せずただ唱えるだけなら、くどくど祈る異教徒の祈りと少しも変わりません。
「主の祈り」の内容が私たちの日々の祈りの生活に正しく反映される時、健全な信仰の成長があります。

2024年10月6日

 

「祈る態度」

聖書箇所:マタイ6章5-8節

1,誤った祈り方
①偽善的な祈り
パリサイ人の代表されるこの祈りの目的は、神を崇める
ためではなく、自己を崇めるために用いられています。自分の祈り深さや敬虔深さを誇示する見せかけの祈りです。神にではなく、自分自身に注意が向けられているのです。
②迷信的な祈り
 同じ言葉を無意味に繰り返して祈ることは、異教宗教の特質です。ことば数を多くし、祈りの量(時間)を多くすることで、効き目を求める愚かな祈りです。
2,正しい祈り方
①雑念を退け、神と二人きりになる時間と場所を持ち、神
と向き合う祈りです。
②信仰の確信をもって祈りことです。すでにかなえられた
と信じ、祈るのです。(マルコ11:24、Ⅰヨハネ5:14,15)私たちの天の父は、「お願いする先に」何が必要かを完全
に知っておられます。ですからくどくど祈らなくてよいの
です。子が信頼して求めてくることを父は喜ぶのです。


2024年9月

2024年9月29日

 

「義を行う生活」

聖書箇所:マタイ6章1-4節

当時パリサイ派のユダヤ人が重んじた宗教行為…施し、祈り、断食…は、善行とされていました。主イエスは、その中にたやすく入り込む偽善を、明らかにされます。
1,施しに潜む偽善
 施しそのものは、人に対する愛と憐みの行為であり、尊いことですが、その行為の動機が常に神の前に問われるのです。自分が褒められたい、尊敬されたいという思いから(使徒5:1~6)、自己宣伝の行為をし、自己満足にひそかにひたる心を主は御嫌いになられます。
2,どのように行うべきか
①施しの心はただ、神から来ることを知ることです。溢れるばかりの救いの恵みを受けた私たちは、感謝と喜びをもって愛の業をさせていただくのです。(Ⅱコリント9:7)
②すべての施しは神の前に、神との交わりの中で行うべきです。(詩篇16:8)
③ただ神に喜んでいただくという動機をもって行うべきで、人を喜ばせるのではありません。(ガラテヤ1:10)
④すべての栄光を神に帰し、空しくなり、その自分の善行を忘れることです。(黙示録4:10~11)

2024年9月22日

 

「あなたの敵を愛せよ」

聖書箇所:マタイ5章43-48節

1,あなたの隣人
 パリサイ人達は、隣人とは自分たちの仲間、同国人を指すものとして、異邦人は敵として憎むよう解釈しました。主イエスは、聖書本来の意味は、「あなたの敵を愛せよ」(出エジプト23:4~5)と語り、あなたの隣人とは、あなたの敵であり、あなたを憎む者、呪う者、侮辱する者を含むこと(ルカ6:27,28)であり、主は十字架で、その愛を実践されました。(ルカ23:34)
2,敵を愛せよ
 主イエスは、「敵を愛せよ」と語ったのであって、「敵を好きになれ」と語られたのではありません。重要なのは、好きでない人のために祈ることです。気分や感情によってではなく、意志で愛することです。良きサマリヤ人のたとえが良き例です。(ルカ10:29~37)
3,天の父のように
正しい者にも、正しくない者にも、太陽を登らせ、雨を降らせ、片寄らずに恵みを与えてくださる神、世の全ての人を愛し、最愛の御子を世に遣わし、十字架に御子のいのちを犠牲にし、信じる者を救う道を開かれ神を心に留め、その大きな愛のゆえに、神の子としていただいたことを覚えましょう。天の父なる神の恵みによって、子にふさわしい全き愛に生きる者とならせていただきましょう。

2024年9月15日

 

「キリスト者の自己否定」

聖書箇所:マタイ5章38-42節

1,「目には目を、歯には歯を」とは
 この律法は、甚だしい行き過ぎと報復の要求を抑制し、限度内に制限することを目的とし、個人の間の秩序に関して責任を負う裁判官に対して与えられたものです。しかし、パリサイ人達はこの律法を、私的な復讐を正当化するものとして、個人的報復を良しとしました。「やられたらやり返す」ということが、権利であり、義務であると教えました。
2,主イエスの教え
 主イエスは私的復讐を禁じましたが、無抵抗主義を唱えているのではありません。これは心の問題であり、自分自身に対する私たちの態度(自我)の問題として語っておられます。何か害を加えられたときの復讐心(39節)、自分に加えられる不益に対し権利を主張する態度(40節)、社会や国家からの要求に対する反発心(41節)、自分の所有物に対する物惜しみする自我(42節)に関して語っておられます。
 あなたが、真にキリストの弟子でありたいなら、必ず己に死に、自己否定の道を歩まなければならないということを主イエスは語っておられます。
「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについてきなさい。」マタイ16:24

2024年9月8日

 

「誓いに関するキリストの教え」

聖書箇所:マタイ5章33-37節

 主イエスが「決して誓ってはいけません」と言われたことは、どのような意味でしょうか。1、 誓い全面禁止を意味しない▷積極的に誓うべきこともある(申命記6:13,10:20)▷主イエスご自身(マタイ26:63~64)や使徒パウロ(ローマ9:1,Ⅱコリント1:23、ガラテヤ1:20)も誓われました。生涯と永遠にかかわる重大時に、神の御名の下で真実を告白すること自体、聖書は否定していません。
2,どのような誓いが禁じられたのか 誓いの乱用を禁じられたのです。誓う必要がないのに、誓うべきでないのに、ユダヤ人達は軽はずみな誓いを連発していました。主イエスは、このような不誠実を許してしまうパリサイ人の律法解釈や実践を全面的に否定する語り方をされたのです。特にパリサイ人達の「逃げ道付きの誓い」(マタイ23:16~22)を全面禁止されたのです。
3、言葉における誠実さを求める主偽りに満ちた世に在って、キリスト者は生かされています。その中でキリストのように真実に生きることが求められています。(エペソ4:25)主の十字架を仰ぎ、日々の生活において真実を語り、愛に生きるお互いとなりましょう。(エペソ4:15)。

2024年9月1日

 

「離婚に関するキリストの教え」

聖書箇所:マタイ5章31,32節

1、律法学者の離婚の解釈 律法学者は、離婚状さえ出せば、自由に離婚できる解釈をしました。「妻に何か恥ずべきことを発見したため」(申命記24:1)というこの「恥ずべき事」を都合の良いように解釈し、モーセ律法の真意をゆがめたのです。
2,キリストの教え 主イエスは離婚ついて結婚そのものの尊厳性、神聖性の光から語られました。マタイ19章4~6節では、人間の創造の原理にまでさかのぼって語っておられます。結婚の目的は神の栄光の為、その御名があがめられるためです。結婚は人間が定めた秩序ではなく、神が人間の幸福のために、人間社会の起源以前に制定した聖なる秩序なのです。神がひとりの男とひとりの女の結合として結婚を制定したことは、結婚の永久不変の関係を示して離縁を否定するとともに、一夫一婦制を定めておられるのです。離婚が赦される唯一の理由は、結婚を破壊する不品行の罪の場合だけです。ですから夫婦のきずなの解かれないうちに再婚するならば、姦淫の罪を犯すことになります。
私たちは、結婚の神聖と尊厳を深く覚え、結婚を尊び祝福された家庭を築く者とさせていただきましょう(へブル13:4)。


2024年8月

2024年8月25日

 

「結婚の神聖」

聖書箇所:マタイ5章27-30節

1、心の中で犯す罪(28 節)
主イエスは、殺人の根である怒り、憎しみを鋭く指摘されたように、姦淫の根である情欲にも強い光を当たられました。このみ言葉は(28 節)は既婚者間の関係に限られていません。女も人妻に限定されていません。情欲という意図をもって異性を見る者は、すべて、姦淫の罪を犯してい
ると語っています。結婚の神聖、結婚生活の平和がこの律法の目指している所です。
2,罪がもたらす結果
神は人間を創造され、「産めよ。増えよ。地に満ちよ。」(創 1:28)と祝福と共に命じられました。人類の繁殖は神のみこころであり、性欲は食欲と同じように神の尊い賜物です。しかし、人間は神に背き、罪が内心に入り込んできたため、結婚生活にのみ許されていた性欲を自己中心に乱用し、罪を犯す者となりました。(ガラテヤ 5:19~21)不倫の罪が伴侶を苦しめ、家庭を破壊するのです。
3,罪の抑制と勝利の道
私たちの中で、誰一人として、この律法を破っていないものはありません。だからこそ、神が備えられた、赦しと救いの道である十字架の主イエスを仰ぎ、「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ 8:11)との主の御声を聞くのです。そして、自分の肉を情欲や欲望と共に十字架につけ、聖霊によって生きる者となるのです。(ガラテヤ 5:24,25)

2024年8月18日

 

「怒りと憎しみから和解へ」

聖書箇所:マタイ5章21-26節

1、律法学者やパリサイ人の間違った教え
 彼らは「殺してはならない」という戒めに「裁判」を結び付け、行為において殺人を禁止する法律として理解しました。殺人さえしなければ万事良しとしたのです。
2,主イエスが示す律法の真意
 主イエスは、この戒めをただの行為としての殺人の禁止ではなく、怒りや憎しみ、侮辱や罵りのことばの原因となる人間の心の奥底にある罪の問題に光を当てられました。人を殺してはならないという律法は、要するに愛の律法なのです。愛さないことは殺すことに通じるのです。私たちは、この律法の前に罪なしと神に主張できるものは一人もいません。(ローマ3:10~12)
3,和解の道
 この戒めを守ろうと思うなら、「和解の道を歩むように」と主イエスはすすめておられます。しかも最優先に一刻も早く、和解しなさいと命じておられます。和解の道とは、イエス・キリストの十字架です。(Ⅰペテロ2:24)この道は、神が愛をもって私たちのために備えてくださったものです。「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(Ⅱコリント5:20)

2024年8月11日

 

「律法の文字と心」

聖書箇所:マタイ5章21,22節

※録画するのを忘れてしまい、動画配信できませんでした。
 主イエスは、「律法学者やパリサイ人にまさる義」とは何かを示すために、実生活に密着した六つの具体例について説明されました。律法学者、パリサイ人の教えと対比させながら、主イエスは旧約聖書の道徳律法の真意を人々に明確に教えようとされたのです。
1、律法の文字にこだわり、その精神(心)を忘れてはならない。(Ⅱコリント3:6)
 表面的に、規則規程を守ればそれだけで十分とするパリサイ人の教えに対し、律法の真意を正しく理解し、制定されたお方(神)の心を大切にすべきことを主イエスは教えられました。律法への服従は、単なる行動だけでなく、思考、動機、願望も同様に重要なのです。
2,律法は消極面だけでなく積極面からも考えるべき(マタイ22:37~40)
 律法の究極の目的は、罪の防止だけでなく、愛するように私たちを導くところにあります。
3,律法は、私たちを生きた神との交わりに連れていく為の媒介手段であり、それ自体が目的ではない(ガラテヤ3:24)
 私と神との関係はどうなのか、私はいよいよ神を知り、神を喜ばせる者となっているか、と自問しつつ、神と人とに対する愛に生きる者となるよう祈り求めましょう。

2024年8月4日

 

「律法学者やパリサイ人にまさる義」

聖書箇所:マタイ5章17-20節

1、律法学者、パリサイ人とは
 当時のユダヤ人社会における宗教的指導者で、律法の解釈者として権威をもって教えていた人達です。聖書の教えに言い伝えという彼らの伝統的教えを混入し、純粋な聖書の教えを、異なる解釈で人々に教えていました。
2,律法学者、パリサイ人の義とは
 ルカ18章9~14節に、彼らの義がいかなるものかが、イエス様のたとえ話として示されています。彼らの義は神の前ではなく、人前であり、形式的で自己満足、自己宣伝、動機より行動を誇る高慢な心に満ちた者でした。主イエスは「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と厳しく彼らを譴責しておられます。(マタイ23:13)
3,律法学者やパリサイ人にまさる義とは
 律法は、私たちをキリストに導く養育係です。(ガラテヤ3:24)「砕かれた悔いた心」(詩篇51:17)で、神の前に出て、罪を悲しみ、悔い改め「律法による行いによる義」ではなく「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ3:22)に導かれることが「まさる義」なのです。この素晴らしい恵みは律法を決して無視しません。罪赦され、新たに生まれ、聖霊に満たされた者は、神のみこころである律法を喜び、楽しみ、行うことができるのです。(詩1:2)。


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