礼拝メッセージ
2024年10月
2024年10月13日
「あなたがたはこう祈りなさい」
聖書箇所:マタイ6章9-13節
1,祈りの前の沈黙
「ですから」と、主は語り、偽善者の祈りと異教徒の祈りを警戒することを前提として、「主の祈り」を教えてくださいました。神の前に一人出て、神に面会し、話そうとしているのです。愛と真実、義と聖きに満ちた全知全能のお方を静まって知るところから祈りは始まります。(詩46:10)
2,祈りの典型
「主の祈り」は、私たちが祈るための「型」「典型」が教えられています。祈りはまず「呼びかけ」から始まり、「神にかかわる祈り」「わたしたちにかかわる祈り」そして頌栄のことばで終わります。この順序は主が教えられたものです。
(ルカ11:1~2)
3,祈りの内容
「主の祈り」の中に、私たちが神に祈るべきすべての本質が含まれています。その意味で、その内容を理解することは非常に大切です(ローマ8:26)。理解せずただ唱えるだけなら、くどくど祈る異教徒の祈りと少しも変わりません。
「主の祈り」の内容が私たちの日々の祈りの生活に正しく反映される時、健全な信仰の成長があります。
2024年10月6日
「祈る態度」
聖書箇所:マタイ6章5-8節
1,誤った祈り方
①偽善的な祈り
パリサイ人の代表されるこの祈りの目的は、神を崇める
ためではなく、自己を崇めるために用いられています。自分の祈り深さや敬虔深さを誇示する見せかけの祈りです。神にではなく、自分自身に注意が向けられているのです。
②迷信的な祈り
同じ言葉を無意味に繰り返して祈ることは、異教宗教の特質です。ことば数を多くし、祈りの量(時間)を多くすることで、効き目を求める愚かな祈りです。
2,正しい祈り方
①雑念を退け、神と二人きりになる時間と場所を持ち、神
と向き合う祈りです。
②信仰の確信をもって祈りことです。すでにかなえられた
と信じ、祈るのです。(マルコ11:24、Ⅰヨハネ5:14,15)私たちの天の父は、「お願いする先に」何が必要かを完全
に知っておられます。ですからくどくど祈らなくてよいの
です。子が信頼して求めてくることを父は喜ぶのです。
2024年9月
2024年9月29日
「義を行う生活」
聖書箇所:マタイ6章1-4節
当時パリサイ派のユダヤ人が重んじた宗教行為…施し、祈り、断食…は、善行とされていました。主イエスは、その中にたやすく入り込む偽善を、明らかにされます。
1,施しに潜む偽善
施しそのものは、人に対する愛と憐みの行為であり、尊いことですが、その行為の動機が常に神の前に問われるのです。自分が褒められたい、尊敬されたいという思いから(使徒5:1~6)、自己宣伝の行為をし、自己満足にひそかにひたる心を主は御嫌いになられます。
2,どのように行うべきか
①施しの心はただ、神から来ることを知ることです。溢れるばかりの救いの恵みを受けた私たちは、感謝と喜びをもって愛の業をさせていただくのです。(Ⅱコリント9:7)
②すべての施しは神の前に、神との交わりの中で行うべきです。(詩篇16:8)
③ただ神に喜んでいただくという動機をもって行うべきで、人を喜ばせるのではありません。(ガラテヤ1:10)
④すべての栄光を神に帰し、空しくなり、その自分の善行を忘れることです。(黙示録4:10~11)
2024年9月22日
「あなたの敵を愛せよ」
聖書箇所:マタイ5章43-48節
1,あなたの隣人
パリサイ人達は、隣人とは自分たちの仲間、同国人を指すものとして、異邦人は敵として憎むよう解釈しました。主イエスは、聖書本来の意味は、「あなたの敵を愛せよ」(出エジプト23:4~5)と語り、あなたの隣人とは、あなたの敵であり、あなたを憎む者、呪う者、侮辱する者を含むこと(ルカ6:27,28)であり、主は十字架で、その愛を実践されました。(ルカ23:34)
2,敵を愛せよ
主イエスは、「敵を愛せよ」と語ったのであって、「敵を好きになれ」と語られたのではありません。重要なのは、好きでない人のために祈ることです。気分や感情によってではなく、意志で愛することです。良きサマリヤ人のたとえが良き例です。(ルカ10:29~37)
3,天の父のように
正しい者にも、正しくない者にも、太陽を登らせ、雨を降らせ、片寄らずに恵みを与えてくださる神、世の全ての人を愛し、最愛の御子を世に遣わし、十字架に御子のいのちを犠牲にし、信じる者を救う道を開かれ神を心に留め、その大きな愛のゆえに、神の子としていただいたことを覚えましょう。天の父なる神の恵みによって、子にふさわしい全き愛に生きる者とならせていただきましょう。
2024年9月15日
「キリスト者の自己否定」
聖書箇所:マタイ5章38-42節
1,「目には目を、歯には歯を」とは
この律法は、甚だしい行き過ぎと報復の要求を抑制し、限度内に制限することを目的とし、個人の間の秩序に関して責任を負う裁判官に対して与えられたものです。しかし、パリサイ人達はこの律法を、私的な復讐を正当化するものとして、個人的報復を良しとしました。「やられたらやり返す」ということが、権利であり、義務であると教えました。
2,主イエスの教え
主イエスは私的復讐を禁じましたが、無抵抗主義を唱えているのではありません。これは心の問題であり、自分自身に対する私たちの態度(自我)の問題として語っておられます。何か害を加えられたときの復讐心(39節)、自分に加えられる不益に対し権利を主張する態度(40節)、社会や国家からの要求に対する反発心(41節)、自分の所有物に対する物惜しみする自我(42節)に関して語っておられます。
あなたが、真にキリストの弟子でありたいなら、必ず己に死に、自己否定の道を歩まなければならないということを主イエスは語っておられます。
「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしについてきなさい。」マタイ16:24
2024年9月8日
「誓いに関するキリストの教え」
聖書箇所:マタイ5章33-37節
主イエスが「決して誓ってはいけません」と言われたことは、どのような意味でしょうか。1、 誓い全面禁止を意味しない▷積極的に誓うべきこともある(申命記6:13,10:20)▷主イエスご自身(マタイ26:63~64)や使徒パウロ(ローマ9:1,Ⅱコリント1:23、ガラテヤ1:20)も誓われました。生涯と永遠にかかわる重大時に、神の御名の下で真実を告白すること自体、聖書は否定していません。
2,どのような誓いが禁じられたのか 誓いの乱用を禁じられたのです。誓う必要がないのに、誓うべきでないのに、ユダヤ人達は軽はずみな誓いを連発していました。主イエスは、このような不誠実を許してしまうパリサイ人の律法解釈や実践を全面的に否定する語り方をされたのです。特にパリサイ人達の「逃げ道付きの誓い」(マタイ23:16~22)を全面禁止されたのです。
3、言葉における誠実さを求める主偽りに満ちた世に在って、キリスト者は生かされています。その中でキリストのように真実に生きることが求められています。(エペソ4:25)主の十字架を仰ぎ、日々の生活において真実を語り、愛に生きるお互いとなりましょう。(エペソ4:15)。
2024年9月1日
「離婚に関するキリストの教え」
聖書箇所:マタイ5章31,32節
1、律法学者の離婚の解釈 律法学者は、離婚状さえ出せば、自由に離婚できる解釈をしました。「妻に何か恥ずべきことを発見したため」(申命記24:1)というこの「恥ずべき事」を都合の良いように解釈し、モーセ律法の真意をゆがめたのです。
2,キリストの教え 主イエスは離婚ついて結婚そのものの尊厳性、神聖性の光から語られました。マタイ19章4~6節では、人間の創造の原理にまでさかのぼって語っておられます。結婚の目的は神の栄光の為、その御名があがめられるためです。結婚は人間が定めた秩序ではなく、神が人間の幸福のために、人間社会の起源以前に制定した聖なる秩序なのです。神がひとりの男とひとりの女の結合として結婚を制定したことは、結婚の永久不変の関係を示して離縁を否定するとともに、一夫一婦制を定めておられるのです。離婚が赦される唯一の理由は、結婚を破壊する不品行の罪の場合だけです。ですから夫婦のきずなの解かれないうちに再婚するならば、姦淫の罪を犯すことになります。
私たちは、結婚の神聖と尊厳を深く覚え、結婚を尊び祝福された家庭を築く者とさせていただきましょう(へブル13:4)。
2024年8月
2024年8月25日
「結婚の神聖」
聖書箇所:マタイ5章27-30節
1、心の中で犯す罪(28 節)
主イエスは、殺人の根である怒り、憎しみを鋭く指摘されたように、姦淫の根である情欲にも強い光を当たられました。このみ言葉は(28 節)は既婚者間の関係に限られていません。女も人妻に限定されていません。情欲という意図をもって異性を見る者は、すべて、姦淫の罪を犯してい
ると語っています。結婚の神聖、結婚生活の平和がこの律法の目指している所です。
2,罪がもたらす結果
神は人間を創造され、「産めよ。増えよ。地に満ちよ。」(創 1:28)と祝福と共に命じられました。人類の繁殖は神のみこころであり、性欲は食欲と同じように神の尊い賜物です。しかし、人間は神に背き、罪が内心に入り込んできたため、結婚生活にのみ許されていた性欲を自己中心に乱用し、罪を犯す者となりました。(ガラテヤ 5:19~21)不倫の罪が伴侶を苦しめ、家庭を破壊するのです。
3,罪の抑制と勝利の道
私たちの中で、誰一人として、この律法を破っていないものはありません。だからこそ、神が備えられた、赦しと救いの道である十字架の主イエスを仰ぎ、「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ 8:11)との主の御声を聞くのです。そして、自分の肉を情欲や欲望と共に十字架につけ、聖霊によって生きる者となるのです。(ガラテヤ 5:24,25)
2024年8月18日
「怒りと憎しみから和解へ」
聖書箇所:マタイ5章21-26節
1、律法学者やパリサイ人の間違った教え
彼らは「殺してはならない」という戒めに「裁判」を結び付け、行為において殺人を禁止する法律として理解しました。殺人さえしなければ万事良しとしたのです。
2,主イエスが示す律法の真意
主イエスは、この戒めをただの行為としての殺人の禁止ではなく、怒りや憎しみ、侮辱や罵りのことばの原因となる人間の心の奥底にある罪の問題に光を当てられました。人を殺してはならないという律法は、要するに愛の律法なのです。愛さないことは殺すことに通じるのです。私たちは、この律法の前に罪なしと神に主張できるものは一人もいません。(ローマ3:10~12)
3,和解の道
この戒めを守ろうと思うなら、「和解の道を歩むように」と主イエスはすすめておられます。しかも最優先に一刻も早く、和解しなさいと命じておられます。和解の道とは、イエス・キリストの十字架です。(Ⅰペテロ2:24)この道は、神が愛をもって私たちのために備えてくださったものです。「私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。」(Ⅱコリント5:20)
2024年8月11日
「律法の文字と心」
聖書箇所:マタイ5章21,22節
※録画するのを忘れてしまい、動画配信できませんでした。
主イエスは、「律法学者やパリサイ人にまさる義」とは何かを示すために、実生活に密着した六つの具体例について説明されました。律法学者、パリサイ人の教えと対比させながら、主イエスは旧約聖書の道徳律法の真意を人々に明確に教えようとされたのです。
1、律法の文字にこだわり、その精神(心)を忘れてはならない。(Ⅱコリント3:6)
表面的に、規則規程を守ればそれだけで十分とするパリサイ人の教えに対し、律法の真意を正しく理解し、制定されたお方(神)の心を大切にすべきことを主イエスは教えられました。律法への服従は、単なる行動だけでなく、思考、動機、願望も同様に重要なのです。
2,律法は消極面だけでなく積極面からも考えるべき(マタイ22:37~40)
律法の究極の目的は、罪の防止だけでなく、愛するように私たちを導くところにあります。
3,律法は、私たちを生きた神との交わりに連れていく為の媒介手段であり、それ自体が目的ではない(ガラテヤ3:24)
私と神との関係はどうなのか、私はいよいよ神を知り、神を喜ばせる者となっているか、と自問しつつ、神と人とに対する愛に生きる者となるよう祈り求めましょう。
2024年8月4日
「律法学者やパリサイ人にまさる義」
聖書箇所:マタイ5章17-20節
1、律法学者、パリサイ人とは
当時のユダヤ人社会における宗教的指導者で、律法の解釈者として権威をもって教えていた人達です。聖書の教えに言い伝えという彼らの伝統的教えを混入し、純粋な聖書の教えを、異なる解釈で人々に教えていました。
2,律法学者、パリサイ人の義とは
ルカ18章9~14節に、彼らの義がいかなるものかが、イエス様のたとえ話として示されています。彼らの義は神の前ではなく、人前であり、形式的で自己満足、自己宣伝、動機より行動を誇る高慢な心に満ちた者でした。主イエスは「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人」と厳しく彼らを譴責しておられます。(マタイ23:13)
3,律法学者やパリサイ人にまさる義とは
律法は、私たちをキリストに導く養育係です。(ガラテヤ3:24)「砕かれた悔いた心」(詩篇51:17)で、神の前に出て、罪を悲しみ、悔い改め「律法による行いによる義」ではなく「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」(ローマ3:22)に導かれることが「まさる義」なのです。この素晴らしい恵みは律法を決して無視しません。罪赦され、新たに生まれ、聖霊に満たされた者は、神のみこころである律法を喜び、楽しみ、行うことができるのです。(詩1:2)。
2024年7月
2024年7月28日
「キリストと旧約聖書」
聖書箇所:マタイ5章17-20節
主は、天国の国民であるキリスト者のあり方について語り(3~12節)この世に対する使命として地の塩、世の光とういうことを教えられました。(13~16節)そして、旧約聖書に基づいて「義の生活」をするという主題で説教を進めます。その主題は7章14節まで続き、本テキストはその序論です。
1、序論の内容
主の義についての教えは、ひとつ残らず旧約聖書の教え全体と完全に調和しており、律法学者やパリサイ人の教えとは一致せず、対立します。このことが前提となり、説教が語られていることを心に留めましょう。
2,主イエスの聖書観
主は「わたしが‥…来た」と仰せられて、主の解釈が神の権威に基づいていることを明言され、旧約聖書は、すべて、キリストにおいて成就されると語ります。旧約聖書は、主ご自身を証言するものであり(ヨハネ5:39)永遠性と普遍性について断言されまた。
3,私たちの聖書観
私たちは、旧約聖書をどのように見るでしょうか。主が旧約聖書の絶対権威とその統一性を主張されたように、同じように私たちも信じ従うべきです。聖書には、旧約、新約の境目はありません。一書です。
2024年7月21日
「世の光としてのキリスト者」
聖書箇所:マタイ5章13-16節
1、キリスト者が置かれている現状 世は暗黒で闇の世界であると語られています。知識や文化の向上、発展により、人類はより明るい世界を築いていうように見えますが、神を否定する神なき世界は罪とけがれに満ち、不信と憎しみと絶望の世界なのです。(詩14:1)。
2,世にあるキリスト者の存在 キリスト者は、暗やみの中に輝く光として比喩的に語られています。光とは聖さを現わす表現で(Ⅰヨハネ1:5)聖さは神に属します。主イエスは世の光です。(ヨハネ8:12)そして、この光である主を心に受け入れたキリスト者を、主は世の光であると宣言されました。そして光の子として歩むように命じられたのです。(エペソ5:8,9)。
3,光を輝かせることがキリスト者の使命 キリスト者は、隠れることができない存在です。光を隠してはならないのです。キリスト者こそ、信仰の光、愛の光、希望の光を世に現す存在なのです。(Ⅰペテロ2:9)キリストに在る恵みの経験、そしてキリストの福音を世に語ることにより、キリストのすばらしさを知らせることが、世にあるキリスト者の使命です。人々がキリストを信じ救われ、心から神をあがめるようになることが神のみこころなのです。
2024年7月14日
「地の塩としてのキリスト者」
聖書箇所:マタイ5章13-16節
1、地の塩としての存在
主イエスは、救いに与ったキリスト者を地の塩であると宣言されます。キリスト者はこの世に生きていますが、キリストに似たものとして異質の存在です。塩が周囲に溶け込んで影響を与えるように、キリスト者はこの世に影響を与える存在です。
2,地の塩としての効力
第1に腐敗防止の効力です。罪を犯した人類は、ノアの時代のように腐敗性をもっており、神の裁きを避けることはできません。キリスト者こそ、地の防腐剤の働きをする存在です。第2に味をつける効力です。神と離れた人生は、目的も意義もなく無味乾燥なものです。希望もなく平安のない人生です。神と共に歩むキリスト者の親切で塩味の効いた言葉(コロサイ4:6)とその愛の存在がどれほど周囲の人々を潤し、生かすことでしょうか。
3,塩気を失うことへの警告
塩は不純物が混じると、その効力が失われます。この世と安易に妥協し,同化すると、キリスト者は本来の塩気を失うのです。神を第一として聖霊に満たされて歩むお互いとなりましょう。
2024年7月7日
「義のために迫害されている者は幸いです」
聖書箇所:マタイ5章1-12節
1、義のために迫害
義のためとは、キリストの為、あるいはキリストに似た者(弟子)と言い換えることができます。それ以外の異なる理由で迫害されているなら(Ⅰペテロ4:14~16)祝福ではありません。
2,なぜ迫害されるのか
キリスト者は、キリストのものであり、この世の者でありません。キリストに似た者として真理に歩むとき、この世の神(サタン)とその暗闇の勢力は敵対者として憎しみをもって迫害するのです。(ヨハネ15:18~20)
3,だれが迫害するのか
キリスト教信仰を禁じる国家権力、また、世と妥協する教会、名目上のキリスト者によっても迫害されます。狭い道を歩むキリスト者をあざけるのです。(Ⅱテモテ3:12)
4,天における大いなる報い
天の神は、大いなる祝福を約束され、希望と喜びも持って信仰生涯を全うするよう励ましてくださいます。(へブル12:1,2)「天の御国はその人たちのものだからです」